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【文章翻譯】石田三成,使西軍敗北的三個戰略失誤 關原之戰的研究(中)

一騎 | 2018-12-29 21:34:17 | 巴幣 8 | 人氣 645

BASARA的三成是因為本身髮型太前衛了嗎。追加服裝就不像家康那樣。

幾個月前在刪垃圾郵件時發現的系列文章。
本篇(中)是講筆者整理石田三成的三個失誤;
(上)是描述德川家康在關原之戰時的動靜;
(下)則是敗戰後「敗部復活」的幾位武將。







石田三成,使西軍敗北的三個戰略失誤 關原之戰的研究(中)
2017/8/30



「『伶俐善道的知識型官僚』這樣對石田三成的印象,是後世人搞錯了,其實他也具備武將的資質。」——九州大學教授中野等如此斷言。中野教授在《石田三成傳》(⽯⽥三成伝,吉川弘⽂館)一書中徹底分析同時代的第一手史料,描繪出一個「行事果斷,一身是膽」而真實等身的石田三成形象。不太為人所知的是,使三成爬到出人頭地階段的一個契機,就是在賤岳之戰以一位情資將官的身分大顯身手。而其後的太閣檢地,三成以負責人的身分前往現場,實際上是一種潛入敵國的行為。

(原文)
「怜悧(れいり)なインテリ官僚という⽯⽥三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えてい た」――。中野等・九州⼤学教授はこう⾔い切る。中野教授は「⽯⽥三成伝」(吉川弘⽂館)で同時代の⼀次史料 を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等⾝⼤の⽯⽥三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっ かけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。そ の後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。



無法徹底解讀反攻而分散兵力
反転攻勢読み切れず兵⼒分散

三成在關原之戰起事後的動作甚至可以說是軍事政變的好範例。三成最初被豐臣家視為叛徒。但在大約一週之後毛利輝元進入大阪城的時候,三成之於家康卻已經建立起壓倒性的優勢。家康似乎是沒有注意到,本來有段時間效忠於他的幾位奉行會跳槽到三成方,而自己則從豐臣政府的最高權力者淪落到叛軍首領。

(原文)
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお⼿本とすらいえる。最初は豊⾂家から「反乱者」と⾒ なされていた。約1週間後に⽑利輝元が⼤阪城に⼊った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いてい た。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉⾏らが三成側に寝返り、⾃分が豊⾂政府の最⾼権⼒者から反乱軍の ⾸領に転落していたのを気付かなかったようだ。



中野教授指出「三成沒有徹底判讀到家康的反攻速度,是一大敗因。」這導致了兵力分散。中野教授還認為,三成等西軍的戰略是擴大支配地的「面」性作戰;而家康的戰略則是直搗中央為主軸的「線」性作戰。西軍在掌握京都、大阪後便擴大戰線至北陸、伊勢、京都北部,不管哪個站場都進展順利。毛利軍也往四國、中國地方出兵。然而由於兵力分散,三成所負責的濃尾方面軍就顯得勢單力薄。

(原文)
中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが⼤きい」と指摘する。それが兵⼒の分散を招 いた。同教授は三成ら⻄軍の戦略は⽀配地を拡⼤する「⾯」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦 いだったとみる。⻄軍は京都・⼤阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡⼤し、どの戦場でも有利に 戦いを進めていった。⽑利軍は四国、中国地⽅へも出兵している。その⼀⽅で兵⼒の分散のため、三成が担当して いた濃尾⽅⾯軍は⼿薄になった。



在擅長的情報戰上大幅落後
得意の情報戦で⼤きく後れ

註有《豐臣政權的權力構造》(豊⾂政権の権⼒構造,吉川弘⽂館)的國學院大學講師堀越祐一認為上述的戰略失誤實現,導致了岐阜城陷落。在岐阜城攻防戰上兩軍的兵力是東軍約三萬五千人對上西軍約六千人,差別甚大。岐阜城主織田秀信參考祖父信長的例子發動野戰卻完敗,岐阜城也大概過了半日就淪陷。堀越講師說到,「岐阜城就好比是織田家的聖地,有著非凡意義。」堀越講師還表示,「假如秀信採用籠城策略,東軍的福島正則、池田輝政等既往織田家家臣可能就無法攻下。」

(原文)
「豊⾂政権の権⼒構造」(吉川弘⽂館)の堀越祐⼀・国学院⼤講師はその戦略ミスが現実化したのが岐⾩城の失 陥とみる。岐⾩城攻防戦では兵⼒差が東軍約3万5千に対し⻄軍は約6千と⼤きな差がついていた。岐⾩城主の織⽥秀信は祖⽗・信⻑の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐⾩城も約半⽇で陥落してしまう。堀越講師は「岐⾩城はいわば織⽥家の聖地で、⼤きな意味を持っていた」としている。堀越⽒は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池⽥輝政らかつての織⽥家の⾂下は攻めなかった可能性も残る」という。



岐阜城陷落對本來有利於西軍的動向造成了重大傷害,甚至連在大阪城的西軍首腦都難掩動搖之意。實際上,京極高次就離開西軍帶著約三千人龜守在根據地的大津城。同城於九月15日陷落,而該日正好是關原之戰當天。攻城方的西軍一萬五千名將士來不及參加決戰。

(原文)
それまでの⻄軍有利の流れを変えたダメージは⼤きく、⼤阪城の⻄軍⾸脳にまで動揺が広がったという。実際、 京極⾼次は⻄軍から離脱し約3千で本拠地の⼤津城に⽴てこもった。同城は9⽉15⽇に陥落するが、その⽇がちょ うど関ケ原合戦の当⽇。攻城側の⻄軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。



堀越氏指出「在情報戰上,三成也是大幅落後。」家康將位於東北並同樣反對家康的上山景勝軍,和三成等西軍主力的情資路徑切斷。三成對位在中間地點的上田城作戰的真田昌幸送出了數封書狀,希望他和上杉軍取得聯繫;但其中幾封已經落入家康手中。知曉歧阜城陷落的家康急忙從江戶出發往最前線,但三成卻似乎沒有掌握到對方的具體動向。另一方面,家康似乎是成功確認到像是秀賴不出馬等大阪城的動態。「應該有不少武將都對東西兩軍設以保險」中野教授說道。而積極活用該狀況的是家康。大阪城裡也還留著家康的贊同者。

(原文)
堀越⽒は「情報戦の⾯でも三成は⼤きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら⻄軍主⼒との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上⽥城で戦う⻄軍の真⽥昌幸に何通も書 状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真⽥宛の書状もいくつかは家康の⼿にわたっていたと いう。岐⾩城陥落を知った家康は江⼾から最前線へ急⾏したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。⼀⽅、家康は秀頼の不出⾺など⼤阪城の動きを確認できていたようだ。「東⻄両軍に保険をかけていた 武将は⼤勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活⽤したのは家康だった。⼤阪城にも徳川シンパ は残っていたという。



本來比起上戰場廝殺,情報戰正是武將三成的拿手絕活。堀越氏認為「三成在起事後不久成功逆轉,將自己升為豐臣政府軍,將家康降為叛軍,因此而開始大意輕敵。」輕忽敵人,招致了兵力分散以及輕視情報戰。「三成認為對方不會對著擁立秀賴的我方積極進攻。家康就是在這時見縫插針」(堀越氏)。中野教授也提到「家康並沒有三成所相信得那麼信任豐臣政權」。再者,家康從秀吉過世前後,就在多方拉攏支持者。中野教授指出「黑田長政和細川忠興等在豐臣政權底下,前途黯淡。」就算變成「叛軍」,還是有不少意志堅定的武將願意遵從家康。

(原文)
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越⽒は「三成が決起直後に⾃らを豊 ⾂政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が⽣じた」とみる。油断が兵⼒の分散や情報戦の軽視を招いたと している。「秀頼を擁⽴している⾃分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙 をついた」(堀越⽒)。中野教授も「豊⾂政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家 康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派⼯作を⾏っていた。中野教授は「⿊⽥⻑政や細川忠興らは 豊⾂政権下では先⾏きの⾒通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将 が少なくなかった。



三成並非西軍首領
三成は⻄軍のリーダーではなかった



最大的誤算要算是西軍首腦的戰略目標不一致。西軍首腦裡除了三成外,數得出來的就有毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉繼、小西行長、安國寺惠瓊——這麼多。在三成所指導的方針下,所有人並非團結一致。至此筆者都說明三成他做為「反德川」的領導勸誘毛利和宇喜多加入,再迎戰關原。可是《秀吉死後的權力鬥爭與關原前夜》(秀吉死後の権⼒闘争と関ケ原前夜,日本史史料研究會)的作者水野伍貴提到「就算三成是西軍首腦的其中一人,他也不是首謀者。」三成並非無謀莽夫,先單獨開始反德川鬥爭,之後再向大大名請求協力;反而是宇多喜等大老集團積極動作,才決定合作。毛利輝元在一年半前三成失勢的「七將襲擊事件」也是在三成方考量軍事行動。《毛利輝元》(ミネルヴァ書房)的作者,九州大學研究所特別研究者光成準治指出,「西軍在共同謀議起事,但是三成要守護豐臣家的念頭和輝元要擴大毛利家的期望迴異,同床異夢狀態就是西軍的弱點。」

(原文)
最⼤の誤算は⻄軍⾸脳の戦略⽬標にブレがあった点だ。⻄軍⾸脳に数えられるのは三成のほか⽑利輝元、宇喜多 秀家、⼤⾕吉継、⼩⻄⾏⻑、安国寺恵瓊--と多い。三成が指導する⽅針で皆が⼀致したわけではなかった。これまでは三成が「反徳川」のリーダーとして⽑利や宇喜多らを誘い込んで関ケ原の戦いに臨んだと説明されてきた。 しかし「秀吉死後の権⼒闘争と関ケ原前夜」(⽇本史史料研究会)の⽔野伍貴⽒は「三成は⻄軍⾸脳の1⼈ではあ っても⾸謀者ではない」という。単独で反徳川闘争を始動し、後から⼤々名へ協⼒を呼びかけるような無謀な⼈物 ではなく、むしろ⽑利、宇喜多ら⼤⽼グループが積極的だったため連携に踏み切ったという。⽑利輝元は1年半前 に三成が失脚した「7武将襲撃事件」でも三成側での軍事⾏動を考えていたという。「⽑利輝元」(ミネルヴァ書 房)の光成準治・九州⼤⼤学院研究者は「⻄軍は共同謀議で決起したが、豊⾂家を守るという三成の思惑と⽑利家 を拡⼤したいという輝元の思惑が異なる同床異夢状態が⻄軍の弱点だった」と指摘する。



而毛利輝元,是隨著情勢慢慢改變立場,愈趨傾向和家康作不戰協定。這是因為(1)上杉征伐軍幾乎直接跟了家康(2)歧阜城輕鬆陷落(3)大津城京極氏叛離——等等此類超乎西軍的不利狀況。再者,「輝元自身,當初也沒有期望速戰速決」光成氏說道。因為輝元企圖趁著政治混亂延長的期間,掌握四國、九州等西國一帶。一直以來人們都認為,身為毛利一族的有利武將吉川廣家,獨斷地和黑田長政等東軍做交涉,但最新的研究指出,是因為輝元自己的指示,吉川廣家才行動的。輝元所信賴的親信,也是戰後被當作西軍首腦的一員而處死的安國寺惠瓊,也是默認自軍的如此行動。結果眾所皆知:毛利軍不出戰,以及小早川秀秋背叛,決定了關原之戰的東軍勝利。但是戰後處理並不如輝元的期待,結果以領國遭到減封至三分之一告終。

(原文)
その⽑利輝元が、家康との不戦協定へスタンスを変えていく。(1)上杉征討軍のほとんどがそのまま家康に従っ たこと(2)岐⾩城が簡単に陥落したこと(3)⼤津城・京極⽒の離反――といった⻄軍の予想外の不利な状況が続いて いたからだ。さらに「輝元⾃⾝、当初から短期間での決着を望んでいなかった」と光成⽒は⾔う。政治的混乱が⻑ 引き、その間に四国・九州など⻄国の掌握を輝元が企図していたためだ。従来は⽑利⼀族の有⼒武将であった吉川 広家が、独断で⿊⽥⻑政ら東軍と交渉したとされてきたが、最新の研究では輝元⾃⾝の指⽰で吉川広家が動いたと される。輝元が信頼する側近で、戦後には⻄軍⾸脳の1⼈として処刑される安国寺恵瓊も、そうした⾃軍の動きを 黙認していたという。結局⽑利軍の不戦と⼩早川秀秋の裏切りが関ケ原合戦の東軍勝利を決めたのは周知の通り だ。だが戦後処理は輝元の期待と裏腹に領国を約3分の1に減封されるという結果に終わった。



沒有以妥協來慢慢爭取機會的方法嗎
妥協して時間を味⽅にする道はなかったか



家康和三成的政治傾向有不少共通點。寫作《德川家康》(徳川家康,ミネルヴァ書房)的國際日本文化研究中心名譽教授笠谷和比彥就舉出家康政治的特徵有「法律支配」。家康在多方面推進法律整備,好比「武家諸法度」「宮中並公家諸法度」等。另一方面,作為太閣檢地的具體推動者,三成所目標的也是貫徹稅收的全國共通規則。九州大學教授中野等提到,江戶時代時期由譜代大名來就任老中,而不讓前田、伊達等大大名參加的制度,其原型就是豐臣政權末期的「五大名、五奉行制」。「基本上是將權威與權力分離;豐臣時代的大老也沒有具體的政治權力。」中野教授說道。另外家康一輩子的興趣「鷹狩」已經為人所熟知,但是三成也有留下開興談論自己老鷹有多麼出色的書狀。

(原文)
家康と三成の政治指向には共通点も少なくない。「徳川家康」(ミネルヴァ書房)の笠⾕和⽐彦・国際⽇本⽂化 研究センター名誉教授は家康政治の特徴として「法の⽀配」を挙げる。家康は「武家諸法度」「宮中並公家諸法 度」など多⽅⾯で法の整備を推進した。⼀⽅、太閤検地の具体的な推進者だった三成の⽬指したものも税収の全国 共通ルールの徹底だった。中野等・九州⼤学教授は江⼾時代に⽼中らには譜代⼤名が就任し、前⽥・伊達といった ⼤々名に参画させなかった制度の原型を豊⾂政権末期の「5⼤名・5奉⾏制」にみるという。「基本的には権威と権 ⼒の分離で、豊⾂時代の⼤⽼にも具体的な政治的権⼒はなかった」(中野教授)としている。また家康の⽣涯の趣 味として「鷹(たか)狩り」が知られているが、三成にも⾃分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残ってい る。



水野伍貴氏指出在關原前夜,德川家和石田家還處於暫時的友好關係。家康要從京都的伏見城移動到大阪城時,三成還提供了家兄的城內宅邸。家康也認可三成的嫡子在大阪城任職值勤。「三成這個人物,並非始終貫徹反家康的立場並總是意圖舉兵,也並非判讀不了時勢」(水野氏)。家康和三成也不是一開始關係就很差。家康60歲,三成39歲,秀賴6歲;三成就沒有和家康妥協來慢慢獲得機會的選擇嗎。

(原文)
⽔野伍貴⽒は関ケ原前夜には⼀時的に徳川家と⽯⽥家が友好的な関係にあったことを指摘する。家康が京都・伏 ⾒城から⼤阪城に移る際に安全のため実兄の城内屋敷を提供している。家康も三成の嫡⼦の⼤阪城勤務を認めてい る。「終始反家康の⽴場を貫き常に挙兵の機会を狙っていた、時勢の読めない⼈物ではなかった」(⽔野⽒)。家康と三成は最初から仲が悪かったわけでもない。家康60歳、三成39歳、秀頼6歳。三成には家康と妥協して時間を 味⽅に付ける選択はなかったのか。



水野氏說「三成在秀吉家臣團中慢慢嶄露頭角時,正好秀吉在一步步奪取織田家的權力。」秀吉在本能寺之變後,一邊擁立信長的嫡孫秀信,又一步步攻擊其兒子的信孝、信雄。在一旁看著整段經過的,就是親信的三成。「從三成自己的經驗看來,他或許瞭解到在家康死去之前豐臣家就會消滅」(水野氏)。光成氏則是指出,秀吉點名三成負責和上杉、佐竹、真田等「家康包圍網」的諸大名做外交事務,從頭到尾都將他放在對抗家康的立場。在秀吉活著時兩方之間並沒有對立。但是光成氏推定「可能三成心中將家康視作潛在敵人的想法,是秀吉心底的想法一點一滴灌輸進去的結果。」
(松本治人)

(原文)
⽔野⽒は「三成が秀吉家⾂団中で頭⾓を現していったのは、ちょうど秀吉が織⽥家の権⼒を奪取していく時期だ った」と話す。秀吉は本能寺の変後、信⻑の嫡孫・秀信を⽴てつつ⼦息の信孝、信雄を攻めていった。その経緯を間近で⾒ていたのが側近の三成だった。「⾃分の経験から、家康が死去する前に豊⾂家が消滅すると読んいでたのではないか」(⽔野⽒)。光成⽒は秀吉が三成の外交担当に上杉、佐⽵、真⽥といった「家康包囲網」の諸⼤名をあて、⼀貫して家康に対抗する⽴場に置いていたと指摘する。秀吉が⽣きている間は対⽴することはなかった。しかし「三成の⼼中には家康を潜在的な敵と⾒なす秀吉の底意が刻み込まれていったのではないか」と光成⽒は推定 している。
(松本治⼈)




「時間を 味⽅に する/付ける」這句片語我還是第一次看到。看起來是一句蠻常用的片語,怎麼在這幾年裡都沒看過呢......只能說是涉略不夠吧。

文章最後光成先生說的那句話,它的句子結構剛好是我不擅長的那種「稍微複雜的句型」,意思應該是到了,可是句型嘛……

再來是語順的問題。這次文章裡的
「三成にも⾃分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残っている。」
這句裡的副詞片語「喜々として」我乍時不知道要塞哪裡。
翻到這句時,我才發現為什麼我之前在Youtube上看到有人把ガッチマン的一支影片
「クリスマスに無駄に浮かれるおじさん」
的標題直譯成
「在聖誕節白費勁地興致勃勃的大叔」
時,實在是看得很尷尬。
我自己有時候不是很喜歡在句子裡硬是用助詞區分段落,會看起來有點生硬。
不過我還是只能憑感覺分出那些時候會看得尷尬。

這篇文章讓我想到當初BASARA 3 發售時,CAPCOM把三成拱出來當成最高首領,讓我很不解。橫山光輝的《德川家康》裡,還算照實史地把西軍描繪成「首腦集團」而不是三成獨大,這也是我一直以來對西軍領導的印象。

創作回應

娃娃國持劍儀兵
一般的印象是三成不會作人所以如果出面擔任總大將則武將們勢必不會跟隨三成,所以身為三成少數好友的大谷才建議三成請毛利出來當總大將
2018-12-29 22:04:43
一騎
原來如此。
2018-12-29 22:12:41
一騎
三成不太通情理是有聽過,但是毛利當總大將我還是第一次看到。
之前也不是很積極修歷史相關的課程。
2018-12-30 00:55:57
紅染憐華
這樣一看秀信的舉動或許太急躁了些,是能理解想要迎頭痛擊在聲威上打擊東軍,之後以完好的主力退回岐阜籠城使福島等人在圍城期間消耗,同時外圍西軍逼近使承受壓力方轉為東軍的想法。不過野戰受到重創大概就對守城士氣造成影響,接著一連串的連鎖反應就.......

但是岐阜城這麼迅速陷落真的有點太難堪了些,好歹是他父祖經營許久、有過改修的城池。
2018-12-31 00:31:25
一騎
半天就陷落,實在太快。我還以為福島等人是在秀信籠城下還半天攻下,結果是秀信自己開門出去打。這個人和也和得太好。
2018-12-31 00:54:42
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