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軍艦資料(維基):
翔鶴 (空母)
翔鶴(しょうかく/しゃうかく)は、大日本帝国海軍の航空母艦(空母)。
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概要
- 軍艦 翔鶴は翔鶴型航空母艦の1番艦である。大和型戦艦「大和、武蔵」と共にマル3計画にて建造され、戦艦「大和」とほぼ同時期に竣工。アメリカのエセックス級やイギリスのイラストリアス級と同様、ワシントン海軍軍縮条約終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した。第五航空戦隊として翔鶴型空母2番艦「瑞鶴」との作戦行動時には、決まって本艦が損害を受けることが多かった。真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ろ号作戦等に参加。日本海軍機動部隊の主力艦として活躍した。1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃により沈没した。
艦名
- 初代「翔鶴」は、江戸幕府および明治政府の外輪式蒸気船「翔鶴丸」である。
- 二代目の「翔鶴」は初期の航空母艦で、1921年(大正10年)2月17日に命名。3月3日に航空母艦として類別された。日本海軍が『航空母艦』という艦種をもうけたのは1920年(大正9年)4月1日のことであり、空母として最初に類別されたのは「若宮」である。「翔鶴」は書類上、日本海軍2隻目の空母となった。 1921年(大正10年)10月13日、空母「鳳翔」の命名および軍艦籍加入が通達され、同日附で航空母艦に類別。同年11月13日に進水、1922年(大正12年)12月27日に竣工。書類上は「若宮、翔鶴」に続く3番目の航空母艦となった。
- 初代空母「翔鶴」は浅野造船所での建造を予定していた。だが1923年(大正12年)11月19日、ワシントン海軍軍縮条約にともない加賀型戦艦「加賀」および天城型巡洋戦艦「赤城」の空母化が正式に通達される。同日附で空母「翔鶴」の建造中止が決まり、航空母艦として登録された「加賀、赤城」と入れ替わる形で除籍された。
- マル3計画で建造された翔鶴型航空母艦「翔鶴」(本艦)は、空母としては2代目、「翔鶴」の艦名を持つ軍艦としては3代目となる。
構造
- 球状艦首(バルバス・バウ)を採用した日本海軍の軍艦の中では最初に竣工した艦であり(起工は大和が一番最初)、最大速力34kt の高速性を得た。機関出力は16万馬力で、大和型戦艦をも上回る。防御能力についても、機関部や弾薬庫などの艦主要部は巡洋艦の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、炸薬量450kg の魚雷にも耐えうる水雷防御が施されるなど充実した性能を持つ。しかし、英空母や次級の大鳳型航空母艦のように飛行甲板の装甲は有しておらず、500kg爆弾が命中すると航空機の運用ができなくなる。また、ダメージコントロールは、ミッドウェー海戦での4空母損失の教訓から、可燃物の撤去や可燃性の塗料などを使用しないなどの運用上の工夫が行われていた。
- 基本的には「瑞鶴」と同様であるが、「翔鶴」は計画時には艦橋を左舷中央に配置する予定であった。左舷中央配置は空母「赤城、飛龍」で採用されたが用兵側から不具合が指摘されている。「飛龍」の場合は、建造開始後に「赤城」での左舷中央配置艦橋の問題が判明した。しかし「飛龍」の建造が進んでいたため、左舷中央配置艦橋のまま配置された。だが「翔鶴」はこの問題が浮上したのが起工後ではあるが進水前段階であったため、右舷前方配置艦橋への設計変更が可能であった。悪天候時の艦の動揺という点では従来空母(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)に比べてやや難があったが、航続力については申し分ないと評価されている。
戦歴
- 軍艦「翔鶴」は1937年(昭和12年)に発表された第三次艦船補充計画(通称マル3計画)によって、大和型戦艦や陽炎型駆逐艦と共に計画され、同年12月12日に横須賀工廠にて建造が始まった。同計画1号艦が戦艦「大和」、2号艦が「武蔵」、3号艦が「翔鶴」、4号艦が「瑞鶴」、5号艦が水上機母艦 「日進」である。戦艦「陸奥」と同じガントリー船台での建造だった。1939年(昭和14年)5月16日、「翔鶴(シャウカク)」と命名。同年6月1日、伏見宮博恭王、米内光政海軍大臣、長谷川清横須賀鎮守府司令長官立会いの元で進水。ところが進水式式典中に大雨となり、正装の拝観者達は右往左往することになった。記念絵葉書と硝子製翔鶴艦型文鎮が配られている。1941年(昭和16年)8月8日竣工。横須賀鎮守府籍。当時の艦幹部達は、みな空母に配属された事が不満であったという。8月23日、処女航海を実施、鹿児島方面へ向かった。春日丸級特設航空母艦「春日丸」と第五航空戦隊を編制した。
- 9月1日、第一航空戦隊所属の第7駆逐隊より吹雪型駆逐艦2隻(朧、漣)が除籍され、第五航空戦隊に編入される。 9月25日、姉妹艦「瑞鶴」が竣工。「春日丸」と入れ替わるように第五航空戦隊に編入された。また「漣」も第7駆逐隊に復帰し、五航戦から除かれた。 9月27日、陽炎型駆逐艦19番艦の「秋雲」が竣工、同日附で第五航空戦隊に編入された。
真珠湾攻撃
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- 竣工後は直ちに連合艦隊に所属し、姉妹艦「瑞鶴」と共に第五航空戦隊を編成し、第一航空艦隊(南雲機動部隊)に所属して真珠湾攻撃に参加した。 艦上攻撃機隊48機が宇佐基地、艦上爆撃機隊54機が大分基地、艦上戦闘機隊36機は佐世保基地を基地として、離着艦訓練や錦江湾、志布志湾、佐伯湾での訓練を行い、11月16日佐世保基地にいた「加賀」以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。
- その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は豊後水道を他艦とは逆に北上して別府湾で停止した。 そして日付が19日になった午前0時に再び動き出して、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を目指し、艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入る。南雲機動部隊の戦力は、空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)、第三戦隊(比叡、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、警戒隊(軽巡《阿武隈》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第18駆逐隊《霞、霰、陽炎、不知火》、秋雲)、潜水艦3隻、油槽船9隻であった。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日南雲機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。
- 詳細は「真珠湾攻撃」を参照
翔鶴からの真珠湾攻撃参加機
99艦爆26機=指揮官:飛行隊長高橋赫一少佐、零戦5機=指揮官:分隊長兼子正大尉
97艦攻27機=指揮官:分隊長市原辰雄大尉
- 艦爆1機が未帰還となり、搭乗員2名が戦死した。帰路ではミッドウェー島砲撃にともなうミッドウェー島空襲や、ウェーク島の戦いに伴うウェーク島空襲に参加する予定もあったが、前者は中止され、後者は第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)が担当することになった。父島南西海面で第二補給部隊、第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)と合流。補給を実施したのち、12月24日になって呉軍港へ帰投する。 しかし真珠湾攻撃作戦から帰投すると、12月31日付で「翔鶴」搭載の常用機定数は「瑞鶴」ともども艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機各18機に削減されて中型空母「蒼龍、飛龍」と同じとなり、投射重量は3分の2となった。
- 1月5日、日本を出撃して1月14日トラック泊地着、17日発。1月20日には空母4隻(赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴)でラバウル空襲を敢行する。ラバウル空襲後、五航戦(瑞鶴、翔鶴)は主隊と分離してパプアニューギニアへ向かう。21日、特別空襲隊(瑞鶴、翔鶴、筑摩、不知火、陽炎、霞、霰)として東部ニューギニアの拠点(ラエ、サラモア、マダン)を空襲するなど、南方方面で活動した。また空襲を終えて母艦へ帰投中の零戦が、遭遇した連合軍飛行艇を撃墜、飛行艇生存者を第六戦隊の重巡「青葉」が収容している。 一連のラバウル攻略作戦支援を終えると、今度は基地航空部隊の同地進出を支援する。随伴艦から「筑摩、陽炎」が外れ「秋雲」を加えたのち、ラバウル進出予定の第24航空戦隊所属九六式艦上戦闘機16機の空輸を命じられた。九六艦戦をトラック泊地からラバウルまで直接空輸することは難しかった為にとられた措置である。「瑞鶴、翔鶴」はトラック泊地より飛来した九六艦戦16機(各艦8)を収容。天候不良のため目的地をカビエンに変更したが、空輸作戦は成功した。 1月29日、「翔鶴、陽炎、浜風」はトラック島を出港、2月3日に横須賀へ到着した。一連の作戦で艦爆1機を喪失(搭乗員2名戦死)、飛行機整備員(プロペラ接触事故)と機関科勤務兵(熱射病)で各1名が戦死した。
セイロン沖海戦
- 3月7日、横須賀を出撃してセレベス島へ向かう途中、米軍機動部隊出現の急報により日本東方海面に進出したが会敵せず、3月16日、横須賀に戻った。翌日出港、3月24日にセレベス島スターリング湾に到着、南雲機動部隊に合流した。3月27日、スターリング湾を出港してインド洋に進出し、4月5日にはセイロン島コロンボ港を空襲している。翔鶴艦爆1機が未帰還となった。
- 詳細は「セイロン沖海戦」を参照
- 南雲機動部隊のインド洋進出に伴って生起したセイロン沖海戦では、「翔鶴」を含む日本艦隊は空母「ハーミーズ」、重巡洋艦「コーンウォール」、「ドーセットシャー」、駆逐艦「バンパイア」などを共同で撃沈した。翔鶴艦爆隊の「ハーミーズ」に対する爆撃命中率は、18機中13発(72%)を記録。だが索敵網の薄さから英軍東洋艦隊主隊を発見できず、大戦果を収める機会を逃がしている。4月10日、駆逐艦「秋雲」と「朧」は第五航空戦隊から除かれた。
珊瑚海海戦
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- 1942年(昭和17年)1月19日、大本営海軍部は山本五十六連合艦隊司令長官にラエ・サラモア・ツラギ・ポートモレスビーの攻略を指示、これを受けて南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)は、3月にラエ・サラモア、4月にツラギ・ポートモレスビーを攻略する計画を示した。3月10日、ラエ、サラモアを米軍機動部隊が空襲し、損傷艦が続出。ポートモレスビー作戦は1ヶ月近く延期された。これはポートモレスビー攻略部隊は、同基地航空部隊と米軍機動部隊の双方に対処せねばならぬことを意味し、南洋部隊(第四艦隊)の軽空母「祥鳳」では対処しきれず、南洋部隊は連合艦隊に有力な空母部隊の派遣を強く要望する。空母「加賀」はパラオで座礁した損傷修理のため内地に帰投しており、4月中の派遣は困難と見られていた。その後のミッドウェー作戦実施予定に鑑み、ポートモレスビー攻略作戦は5月上旬実施に決定する。そこで、南洋部隊の従来戦力(第六水雷戦隊、第六戦隊、第十八戦隊、祥鳳)に加えて、インド洋作戦に参加していなかった空母「加賀」及び第五戦隊(妙高、羽黒)、水上機母艦「瑞穂」、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)等を投入する事がきまる。 ところが、日本軍基地航空隊は第二十五航空戦隊しか配備されず、大型空母の「加賀」でも要求される任務に対処できない見込みとなる。第四艦隊は第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)の派遣を希望したが、連合艦隊は第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)の派遣を決定した。この編成替えには、一航戦や二航戦に対し技量で劣る五航戦に実戦経験を積ませ、練度向上を狙うという意図もあった。また「祥鳳」をMO機動部隊に編入して空母3隻(瑞鶴、翔鶴、祥鳳《戦闘機のみ搭載》)とすることも検討されたが(祥鳳側も希望した)、第四艦隊司令部は輸送船団の援護を優先し、「祥鳳」に船団の直接護衛を命じた。
- 以上の作戦方針により、インド洋から帰投途中であった4月12日、第五航空戦隊、第五戦隊、第27駆逐隊の南洋部隊編入が発令された(4月18日附)。第五航空戦隊は4月14日にシンガポール沖で他の空母と別れ、駆逐艦3隻(秋雲、萩風、舞風)とともに台湾の馬公に向かった。馬公には4月18日に到着、正式に第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)が五航戦の指揮下に入る。同日には日本本土初空襲(ドーリットル空襲)があった。19日、補給を終えた五航戦は第27駆逐隊とともに出港して北上。だが、同日中に元の部署への復帰命令があったためトラックへと向かい、4月25日に到着した。そして第五航空戦隊、第五戦隊、第7駆逐隊、第27駆逐隊、油槽船「東邦丸」で『MO機動部隊』が編成された。編成時の「翔鶴」と「瑞鶴」の搭載機は、翔鶴54機(艦戦17、艦爆21、艦攻16)・瑞鶴計63機(艦戦20、艦爆22、艦攻21)、2隻で計117機であった。4月中旬には暗号解読により日本軍の作戦を察知していた米軍は、ポートモレスビー周辺に戦力を集中する。そして空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする第17任務部隊(司令官フランク・J・フレッチャー少将:空母2、重巡7、軽巡1、駆逐艦13、水上機母艦1、油槽船2)を迎撃に向かわせた。「エンタープライズ、ホーネット」は東京空襲を実行したため真珠湾で補給を行う必要があり、海戦が長引いた場合には珊瑚海へ投入されることになった。
- 詳細は「珊瑚海海戦」を参照
- 5月1日、MO機動部隊(瑞鶴、翔鶴、時雨、白露、有明、夕暮)はトラックを出撃。ラバウルへ零戦9機を輸送するため南下したが悪天候にみまわれ、5月3日には「翔鶴」の零戦1機が海中に転落した。5月7日朝、翔鶴索敵機は米油槽艦「ネオショー」を米空母と誤認して報告。日本軍攻撃隊78機(瑞鶴37機《艦戦9・艦爆17・艦攻11》、翔鶴41機《艦戦9・艦爆19・艦攻13》)は「ネオショー」と「シムス」を撃沈したが、周辺の敵機動部隊を捜索したため数時間を費やした。また瑞鶴艦爆1機が撃墜された。この間にMO攻略部隊主隊(青葉、加古、衣笠、古鷹、祥鳳、漣)は米軍機動部隊の空襲を受け、軽空母「祥鳳」を喪失している。翔鶴索敵機の偵察員は補欠予備員で、正規偵察員は腹痛のため出撃できなかったという。2機の翔鶴索敵機は帰投の際に機位をうしなって「翔鶴」に戻れずインディスペンサブル礁に不時着、翌日になり駆逐艦「有明」に救助された。「ネオショー」攻撃を終えた飛行隊を収容したのち、MO機動部隊は『本当の米軍機動部隊の位置』に向けて西進を開始、五航戦司令官原忠一少将は薄暮攻撃を企図する。技量優秀者を選抜。攻撃隊27機(翔鶴12機《艦爆6・艦攻6》、瑞鶴15機《艦爆6・艦攻9》)を出撃させたが、米艦のレーダーに捉えられる。これに誘導された戦闘機F4Fワイルドキャットに襲撃されて艦攻隊は大損害(翔鶴艦攻3、瑞鶴艦攻5)を受けた。翔鶴艦攻のうち1機(萩原努大尉機)は「翔鶴」附近まで帰還していたが、最終的に行方不明となっている。また艦爆隊は爆弾を捨てて帰投中に、米空母に着艦しかけるアクシデントもあった。この時、対空砲火で瑞鶴艦爆1機を喪失。帰投した攻撃隊は17機(翔鶴8機《艦攻2・艦爆6》、瑞鶴9機《艦攻4・艦爆5》)であった。翔鶴搭乗員戦死9名。5月7日は「翔鶴」にとって不運の日となった。
- 5月8日の海戦は、ほぼ互角の戦力をもつ日米機動部隊の正面対決となった。朝、MO攻略部隊より第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)が合流。空母2隻(瑞鶴、翔鶴)、重巡4隻(妙高、羽黒、衣笠、古鷹)、駆逐艦5隻(潮、曙、時雨、白露、夕暮)で米軍機動部隊との決戦に臨んだ。午前6時以降の索敵では、翔鶴索敵機(機長:菅野兼蔵飛行兵曹長、操縦:後藤継男一等飛行兵曹、電信員:岸田清次郎一等飛行兵曹長)が米軍機動部隊を発見。同機は燃料切れを覚悟で日本軍攻撃隊を誘導し、未帰還となった。3名は山本五十六連合艦隊司令長官からその功績を認められ、死後二階級特進・金鵄勲章を授与されている。翔鶴飛行隊長高橋赫一が指揮する日本軍攻撃隊69機(瑞鶴31機《艦戦9・艦爆14・艦攻8》、翔鶴38機《艦戦9・艦爆19・艦攻10》)は空母「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」大破という戦果をあげた。翔鶴隊は主に「レキシントン」を、瑞鶴隊は主に「ヨークタウン」を攻撃している。フレデリック・C・シャーマン(レキシントン艦長)は、「(翔鶴隊の攻撃は)みごとに協調が取れていた」と回想している。 一方、対空砲火と米軍機動部隊上空の空戦で計20機(瑞鶴5機《艦爆2・艦攻3》、翔鶴15機《艦戦3・艦爆7・艦攻5》)を喪失。「瑞鶴」は46機(瑞鶴24機《艦戦8・艦爆12・艦攻4》、翔鶴22機《艦戦9・艦爆7・艦攻6》)を収容。収容機中、瑞鶴所属機6と翔鶴所属機6を損傷のため海中投棄した。また後述の攻撃で大破した「翔鶴」に艦戦1・艦爆1が強行着艦している。瑞鶴艦攻1機が不時着して「白露」に救助、瑞鶴艦爆1機が「神川丸」に救助、「古鷹」が翔鶴艦戦3(直衛機)と艦爆2・瑞鶴艦爆1、「勝泳丸」が翔鶴艦爆1を救助した。翔鶴搭乗員戦死者36名。
- しかし第17任務部隊も撃破される前に攻撃隊計82機(75機とも)を発進させていた。米軍攻撃隊はスコールに隠れた「瑞鶴」を見逃し、「翔鶴」に殺到した。MO機動部隊の陣形は混乱しており、相互掩護できる状態ではなかった。ヨークタウン攻撃隊(艦戦6、艦爆24、艦攻9)は「翔鶴」に爆弾6発、魚雷命中3本を報告。レキシントン攻撃隊(艦戦9、艦爆22、艦攻12)は「翔鶴」に爆弾3発、魚雷命中5本、撃沈確実を報告した。米軍側は多数の魚雷命中を報告しているが実際には全て回避しており、命中していたが不発だった可能性もある。だが爆弾は「翔鶴」に大きな損害を与えた。午前9時40分、「翔鶴」に計3発の爆弾が命中、至近弾8発を記録。最初の1発は、艦首前甲板左舷に命中して両舷主錨を吹き飛ばし、前部エレベーターは陥没して停止、飛行甲板前部も損傷、さらに前甲板右舷下方の航空用ガソリン庫に引火し、大火災が発生した。2発目は飛行甲板右舷後部(後部短艇甲板附近)に命中し、短艇が火災を起こした。3発目は、艦橋後方の機銃台・信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た。最終的に戦死者109名、重軽傷者114名に及んだ。「瑞鶴」からは、水平線上にマストだけ見えていた「翔鶴」から火柱があがり、黒煙に包まれる光景が目撃された。 「瑞鶴」見張員が「翔鶴沈没」と錯覚するほどの様子だった。だが機関は無事(30ノット発揮可能)だったため、「翔鶴」は第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)、駆逐艦「夕暮、潮」と共に戦場を離脱する。不時着機の捜索に「時雨、白露」を派遣したので「瑞鶴」に随伴する駆逐艦は「曙」のみとなる。「翔鶴」の火災も鎮火したため、「衣笠、古鷹、潮」は反転。「潮」は燃料補給に向かい、「夕暮」のみ随伴して共に避退した。「夕暮」は「潮」に『翔鶴ハ何処ヘ向ヒシヤ、翔鶴ニ着イテ行ク必要ナキヤ』と発信した。
- なお「瑞鶴」の護衛にあたった駆逐艦「潮」の士官は損傷した「翔鶴」が40ノット以上を発揮していたと述べている。これについては同士官の事実誤認の可能性が高い。珊瑚海海戦時の翔鶴乗組員は退避する「翔鶴」の速力について、 『しかし艦は三十ノットの速力で猛進している』(翔鶴運用長、福地周夫少佐)、 『これは偏に航海長塚本朋一郎中佐による操艦の賜物と評判高い。最大戦速34.5ノットで取舵一杯、面舵一杯にして爆弾・魚雷を避けたと云う。』(翔鶴軍医官、渡辺直寛中尉)、 『たえず変針する三〇ノット以上の全力航行での振動の凄まじさは、爆弾の直撃以上』(翔鶴艦爆整備兵、西村敏勝海軍一等兵曹)、 等の証言があり、「翔鶴」が34ノットの速力で退避していたところ、様々な理由で速力が出ない「潮」が追い抜かれたらしい。
- 5月9日、「翔鶴」と「夕暮」は横須賀回航を命じられた。「祥鳳」の沈没と「翔鶴」の大破、多数の艦載機を喪失したことにより、南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官はポートモレスビー作戦の中断を命じた。井上の姿勢を消極的だと判断した山本五十六連合艦隊司令長官は、断固として追撃するよう命令する。しかし空母「ヨークタウン」は逃走しており、追撃は空振りにおわった。またポートモレスビー作戦の海上攻略作戦も中止された。
損傷修理
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- 5月17日夕刻、駆逐艦「漣、夕暮、黒潮、親潮、早潮」に護衛された「翔鶴」は呉に戻った。母港は横須賀だが、ドックは潜水母艦「大鯨」(空母「龍鳳」)改造工事のために使えなかった。そこで呉に回航されたのである。呉到着時は日曜日であり、艦首主錨を失っていた「翔鶴」は小用港沖の浮標に繋がれてしばらく待機することになった。真珠湾に帰投後、突貫工事で修理を終えミッドウェー海戦に参加した空母「ヨークタウン」(米海軍)とは正反対の対応である。また姉妹艦が大破する様を間近で見た「瑞鶴」乗組員の衝撃も大きく、ミッドウェー作戦参加をためらうような雰囲気もあったという。
- その後、呉軍港に到着した最初の大損傷艦ということで、「翔鶴」には各方面から見学者が殺到した。さらに山本五十六連合艦隊司令長官が「翔鶴」を視察。城島高次艦長は損傷をわびたが、次期艦長に内定していた有馬正文大佐は、「翔鶴」が義務を果たし武勲をあげたことを賞賛している。 また山本は福地周夫翔鶴運用長を戦艦「大和」に呼び、空母被弾時の戦訓について講話を行わせた。福地は搭載飛行機が格納庫内になかったことが消火成功の最大要因と説明したが、結果として南雲機動部隊司令部は「翔鶴」の戦訓を生かさなかった。なお翔鶴乗組員が艦内塗料で描いた『珊瑚海々戦翔鶴奮戦図』という絵は軍令部の参謀に譲られ、さらに戦艦「大和」の連合艦隊司令部に保管されることになった。また福地運用長は損傷した木製飛行甲板の一部を切り取り、そこに南雲中将が『勇躍翔破珊瑚海 翔鶴艦上凱歌高 忠一誌』と揮毫している。
- 後日、井上中将は海軍兵学校校長に就任。福地も「翔鶴」運用長から戦艦「陸奥」運用長(爆沈直前に退任)に転じたあと1943年(昭和18年)6月15日に海軍兵学校教官に配属され、井上に仕えることになった。福地は「陸奥」運用長時代に『翔鶴奮戦図』を「大和」から受け取り「陸奥」に飾っていたが、退艦時に持ちだしたため、福地も『翔鶴奮戦図』も「陸奥」爆沈を免れている。兵学校着任後、井上校長と原忠一霞ヶ浦航空隊司令官(珊瑚海海戦時、第五航空戦隊司令官)の会談時に福地が『翔鶴奮戦図』と南雲中将揮毫を持参すると、井上は『翔鶴奮戦図』をその場で所望し、校長室正面に飾らせた。井上が1944年(昭和19年)8月に海軍次官となって海軍兵学校を去るまで、同絵は校長室に飾られていたという。1945年(昭和20年)5月、福地は舞鶴鎮守府副官に転任し、『翔鶴奮戦図』を教育参考館に寄贈。終戦時、兵学校校長栗田健男中将は焼却を指示したが、文官教授が持ちだして厳島神社に秘匿を依頼したという。
- 6月5日-7日にかけてのミッドウェー海戦で主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)が沈没すると、「翔鶴」は「瑞鶴」とともに航空艦隊の中核となった。炎上する「赤城」からカッターボートで脱出する際、源田実参謀は「翔鶴と瑞鶴がいてくれたらなあ」と弱音を吐いたほどである。それに伴い、ミッドウェー海戦の戦訓から、搭載機の編制も艦戦27、艦爆27、艦攻18に改められる。これは小型空母の艦戦で自隊の上空防御をおこない、大型空母は艦爆隊を投入して敵空母の飛行甲板を使用不能とし、その後に索敵に使用していた艦攻隊に雷撃を行わせ、とどめをさそうという戦術である。艦隊の運用方針も『航空決戦を主目的とし、空母が中核に徹し、水上兵力はこれに協力する』という方針を定めた。さらに前衛艦隊を空母部隊の前方に進出させ、策敵線の形成・帰投飛行隊の誘導・敵艦隊の追撃および補足・敵の攻撃力の一部吸収という役割を担わせた。「囮」となる前衛部隊では「前衛艦を犠牲にして空母だけが甘い事をする」という批判も聞かれ、空母部隊からも直衛艦が減ることへの不満があったが、ともかく実施することになった。ただし急に決まった戦策のため各艦隊・各艦に徹底する余裕がなく、トラック泊地集結時に説明する予定だったものの、後述の第二次ソロモン海戦のため実施できなかった。艦自体にも、レーダーの設置、防火対策の徹底、煙突の冷煙装置を消防用に転用可能とする改造、自動車の部品を利用した移動式消火ポンプの増設、艦の前後に三連装機銃の増設等の改装を行っている。
- 修理を終えた「翔鶴」は第三艦隊・第一航空戦隊旗艦となり、司令長官南雲忠一中将、草鹿龍之介第三艦隊参謀長、有馬正文翔鶴艦長、村田重治少佐(元赤城艦攻隊長)等が着任した。「翔鶴」は名実ともに日本海軍の中枢を担う主力艦となり、福地運用長や塚本朋一郎航海長は「日本海軍最上の艦の乗員」になれた幸運に感謝したという。また有馬艦長は福地から珊瑚海海戦の状況について説明を受け、「翔鶴が沈む時は総員退艦の号令はかけない。全員が運命を共にする覚悟で戦え」と訓示した。福地は「軍艦とその乗員の運命は、艦長の性格とその信念によって決まる」と述べている。南海西部で航空隊の訓練を実施したが、8月15日に着艦訓練をおこない、25日総合訓練(予定)という程度であり、練度は充分とは言い難かった。
第二次ソロモン海戦
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- 8月7日、米軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に来襲、ガダルカナル島の戦いが始り、間を置かず第一次ソロモン海戦が勃発した。8月14日、「翔鶴」は第三艦隊・第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤)を率いて日本を出撃、洋上でも諸々の訓練を行いながらソロモン諸島へ向かう。8月14日附の機動部隊軍隊区分は、本隊(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴、龍驤》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲、秋雲》、第16駆逐隊《時津風、天津風、初風》)、前衛部隊(第十一戦隊《比叡、霧島》、第七戦隊《熊野、鈴谷》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良》、第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》)、油槽船7隻という規模だった。機動部隊決戦に向けて前衛と本隊の役割および位置関係についての戦術を説明する機会や時間がなかったため、やむを得ず航空機から筒を投下するという方法で各隊・各艦に配布している。
- 詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照
- 8月23-24日、ガダルカナル島増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)の輸送船団を巡り、日米双方の機動部隊が対決する。ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への日本軍基地航空隊の空襲が不徹底だったため、第三艦隊から空母「龍驤」、重巡「利根」、駆逐艦2隻(天津風、時津風)が分離してガ島攻撃へ向かった。8月24日の第二次ソロモン海戦では、零式艦上戦闘機発艦準備中にSBDドーントレス急降下爆撃機2機に奇襲される。急転舵して回避に成功したが、飛行甲板上の零戦と整備兵6名が転落・行方不明となった。「翔鶴」のレーダーはドーントレスを探知して艦橋に報告していたが、喧噪により指揮官達に伝わらなかった。B-17重爆8機との戦闘では、零戦自爆1・未帰還1を出した。
- 米軍機動部隊に対する攻撃は、決定的戦果をあげられなかった。翔鶴飛行長関衛少佐指揮のもと第一次攻撃隊の艦爆27・艦戦10(翔鶴22機《艦戦4、艦爆18》、瑞鶴15機《艦戦6、艦爆9》)が発進。空母2隻大破炎上(翔鶴隊はエンタープライズ、瑞鶴隊はサラトガを攻撃)を報じたが、未帰還艦爆17・艦戦3、不時着艦爆1・艦戦3を出し、母艦へ戻ったのは13機だった。翔鶴攻撃隊は空母「エンタープライズ」を中破(爆弾3命中、至近弾2)させたが、同艦はすぐに損傷を修理して1時間以内に航空隊の収容をおこなっている。また「サラトガ」は空襲を受けていないという。 第二次攻撃隊は瑞鶴飛行隊長高橋定大尉指揮のもと艦爆27・零戦9(翔鶴12機《艦戦3、艦爆9》、瑞鶴24機《艦戦6、艦爆18》)が発進したが、米軍機動部隊を発見できず引き返した(艦爆4が未帰還、同1が不時着)。米軍記録によれば、米軍機動部隊の西方50浬に日本軍機を探知したが、南方へ退避したため攻撃を受けなかったとしている。また分派した支隊も米空母「サラトガ」隊の攻撃を受け、空母「龍驤」が沈没した。24日の戦闘で、「龍驤」損害分をあわせ合計59機(零戦30、艦爆23、艦攻6)と水偵3を喪失、「龍驤」が沈没、水上機母艦「千歳」が中破、残存使用可能機数は25日現在で空母2隻合計零戦41・艦爆25・艦攻34となった。翔鶴搭乗員戦死者29名。米軍側は艦載機20を喪失し、日本軍機90機を撃墜したと報告している。
- 8月25日、ガダルカナル島へ向かっていた日本軍輸送船団(金龍丸、ぼすとん丸、大福丸)と護衛部隊(神通、涼風、海風、江風、睦月、弥生、磯風、陽炎、哨戒艇4隻)はドーントレスやB-17重爆の空襲を受け、駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」を喪失、軽巡「神通」が中破する。二水戦司令官田中少将は、上空直掩機のない現状でガ島へ突入しても全滅すると判断し、健在艦をショートランド泊地へ避退させた。空母「瑞鶴」艦載機が上空警戒にあたるが、低速の輸送船団が米軍制空権下で突入することは難しく、作戦中止に至る。ここに第二次ソロモン海戦は米軍の勝利に終わった。
- 第二次ソロモン海戦後、ガダルカナル島攻撃作戦を掩護するため、「翔鶴」より零戦15機(指揮官新郷英城大尉)がブカ島へ派遣された。9月4日、5機(戦死5名)を失って10機に減少した零戦隊が「翔鶴」に帰艦した。翌日、南雲機動部隊はトラックに到着した。9月10日、補給を終えた「翔鶴」以下日本軍機動部隊は出撃してソロモン海域の警戒にあたる。米軍は空母「ワスプ」が日本軍潜水艦の雷撃で撃沈されるなど積極的な行動を起こせず、大きな戦闘が起きないまま「翔鶴」は9月23日にトラック島に戻った。
南太平洋海戦
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- 詳細は「南太平洋海戦」を参照
- 「翔鶴」がソロモン海域で活動する間にもガダルカナル島の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、「翔鶴」はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した。10月26日の戦闘における第三艦隊本隊の戦力は、第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、重巡洋艦「熊野」、駆逐艦「嵐、舞風、照月、浜風、雪風、初風、時津風、天津風」であった。 同日朝、策敵中のドーントレス2機が空母「瑞鳳」を奇襲、爆弾1発を艦後部に命中させて着艦不能とさせた。 午前6時50分、翔鶴索敵機が米軍機動部隊を発見、翔鶴飛行隊長村田重治少佐率いる九七式艦上攻撃機20、高橋定大尉率いる九九式艦上爆撃機21、零戦8機の第一次攻撃隊が発進する。続いて第二次攻撃隊の発進が開始されたが、「瑞鶴」の艦攻発進が遅れたため、「翔鶴」艦爆隊(関衛少佐、艦爆19・零戦5)は瑞鶴隊を待たずに米軍機動部隊へ向かった。「翔鶴」が南下する一方、「瑞鶴」は航空隊発進のため風上へ向かい、20kmも離れる。孤立した「翔鶴」は珊瑚海海戦に続いて米軍機の集中攻撃を受けることになった。爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中、高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷にはならず、「翔鶴」の機関は健在だった。特に煙突冷却用ポンプは効果を発揮し、事前に被弾火災想定訓練をおこなっていた事が被害を最小限にしたといえる。また艦橋防空指揮所の有馬艦長が右舷前方から接近するドーントレスの一群に対し「取舵」を下令したところ、塚本航海長は珊瑚海海戦の経験から独断で面舵へ転舵(米軍艦爆隊と反航態勢)。爆弾4発命中にとどめた。塚本航海長は「艦長の命令だからといって、ミスミス悪いことと知りながら盲従していたら、おそらく全弾命中して『翔鶴』の運命は終わりであったろうと思う」と、南雲長官や草鹿参謀長の面前でも命令違反を犯したと回想している。有馬も取舵転舵を下令した事は失敗だったと認め、塚本を叱責する事態にはならなかったという。
- 「翔鶴」が攻撃を受けていたころ、日本軍攻撃隊も米軍機動部隊を空襲し、 第二航空戦隊(空母隼鷹)や第二艦隊と共同で空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」大破という戦果をあげている。その一方、村田少佐を含む艦攻10機、関少佐を含む艦爆22機、零戦12機、搭乗員計54名を失った。「天津風」など随伴駆逐艦も不時着機搭乗員救助にあたった。午後5時、南雲司令部は駆逐艦「嵐」(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)に移乗して「翔鶴」を離れた。なお、有馬艦長は大破した「翔鶴」で逃走する米軍機動部隊を追撃することを主張した。「翔鶴」を被害担当艦(囮)にして、他艦の攻撃を支援をしようという有馬の特攻精神だったという。だが草鹿龍之介参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と一喝されている。
- 艦上戦死者144名、航空隊戦死者54名を出して大破した「翔鶴」は、駆逐艦「舞風、初風」に護衛されて避退。10月28日トラックに帰港、ふたたび山本司令長官と宇垣纏参謀長の慰問を受けた。南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)は駆逐艦8隻(嵐、野分、秋月、秋雲、浦風、谷風、磯風、浜風)に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した。横須賀に到着した「翔鶴」は同地で修理を行うが、この間、東条英機首相が視察に訪れている。日本海軍は、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・南太平洋海戦における「翔鶴」と「瑞鶴」の奮戦に対し3回の感状を授与した。また二度の大海戦における「翔鶴」と「瑞鶴」の被害の差から、「瑞鶴」は幸運艦と呼ばれた。「瑞鶴」乗組員達は「翔鶴」について、「実に運の悪い艦だ」と噂していたという。一方、福地周夫(翔鶴運用長)は「海軍軍人の立場からいうと、(瑞鶴は)逃げ隠れていて戦うことができずに、かえって不運だったと思っている。翔鶴の方が武運に恵まれて幸運だった」・「敵が攻めて来ているのに隠れていて、しかも、僚艦が攻撃されているのに知らん顔をして戦わなかった『瑞鶴』を、単に運がよかったとばかりは思わない」と著している。珊瑚海海戦の時も、「瑞鶴は隠れていて無事で、まことに幸運でした」と報告したら山本長官は喜んだだろうか、と指摘している。
1943年航空戦
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- 南太平洋海戦後、第三艦隊の司令長官は南雲中将から小沢治三郎中将に代わり、消耗した翔鶴航空隊も定数を満たした。1943年(昭和18年)3月20日、「翔鶴」は竣工したばかりの空母「龍鳳」および駆逐艦「浜風、漣、響、波風」と共に内海西部へ回航される。6月30日、米軍はニュージョージア諸島に来襲してニュージョージア島の戦いが始まった。7月8日、第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)、第八戦隊(利根、筑摩)、航空巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、第十戦隊旗艦「阿賀野」、同戦隊第4駆逐隊(嵐、萩風)・第17駆逐隊(磯風)、第61駆逐隊(涼月、初月)、駆逐艦「玉波」は呉を出発する。だがい号作戦やろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)をはじめとした1943年の航空戦により、再建した母艦航空隊が陸上基地航空隊に転用されて消耗、「翔鶴」と「瑞鶴」が米艦隊と直接交戦することはなかった。
- 11月11日、空母「翔鶴」及び重巡2隻(愛宕、高雄)は駆逐艦2隻(島風、玉波)に護衛されてトラックを出発。15日に横須賀到着後は同地で修理整備を実施したのち、26日に「翔鶴、島風、玉波」はトラックへ向け出撃。空母「千歳」と駆逐艦「秋月、谷風」と合流後、空母2隻・駆逐艦4隻の艦隊は12月1日にトラック泊地へ到着した。 12月6日、第三艦隊旗艦は、一時軽巡洋艦「大淀」に変更される。10日、戦艦「大和、金剛、榛名」、空母「翔鶴」、重巡「利根」等の本土回航命令が出される。「瑞鶴」は既に本土へ戻っていた。12月12日にトラックを出発、17日になり「大和、翔鶴、山雲、秋雲、風雲、谷風」は横須賀に帰着した。
- 1944年(昭和19年)1月17日、「翔鶴、秋雲、風雲」は横須賀を出発して内海西部へ移動。2月6日、空母「翔鶴、瑞鶴」は巡洋艦「筑摩、矢矧」と駆逐艦「初月、若月、秋雲、風雲、朝雲」と共に内地を出発。シンガポール(昭南)着後、リンガ泊地へ進出した。その後、「矢矧、秋雲、秋月」など第十戦隊所属の艦艇と共に訓練に従事した。
マリアナ沖海戦
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- 日本の敗色が濃くなった1944年(昭和19年)3月1日、日本海軍は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)を編成し、「翔鶴」は旗艦となった。3月10日、飛行甲板に装甲を施した新鋭空母「大鳳」が第一航空戦隊に編入される。「大鳳」は3月28日に駆逐艦「初月、若月」に護衛されて内地を出撃。4月15日、小沢中将は「翔鶴」から「大鳳」に移動し、同艦に将旗を掲げた。なお4月11日に駆逐艦「秋雲」が撃沈されている。米軍潜水艦の行動により、日本艦隊の駆逐艦は次々に撃沈され、またビアク島の戦いを巡る渾作戦でも消耗を重ねた。
- 詳細は「マリアナ沖海戦」を参照
- 6月、米軍のサイパン島襲来に伴い、日米両軍の間でマリアナ沖海戦が生起、「翔鶴」も参加する。「翔鶴」の航空戦力は、零式艦上戦闘機34、天山艦上攻撃機12(3機は偵察機)、彗星艦上爆撃機18、二式艦上偵察機10、九九式艦上爆撃機3、計77機だったという。小沢機動部隊(直率隊)が抱える問題の一つに、大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)と巡洋艦3隻(羽黒、妙高、矢矧)に対し、護衛駆逐艦の数が少なすぎることだった。わずか7隻(朝雲、磯風、浦風、初月、秋月、若月、霜月)である。 6月19日11時20分、飛行機発進中に米ガトー級潜水艦「カヴァラ」(USS Cavalla, SS-244)が発射した魚雷6本のうち、3乃至4本が右舷に命中する。「カヴァラ」は給油部隊を発見して追跡を開始、17日夕刻に小沢機動部隊を発見して位置情報を報告すると共に、攻撃の機会をうかがっていたのである。「カヴァラ」側によれば日本側は全く気付いておらず、潜望鏡露出4回、距離1000mまで接近して発射したという。「翔鶴」は複数の魚雷命中によって3軸運転となり、速力が低下した。石塚(矢矧水雷長)によれば、「翔鶴」は被雷後も速度を落とさず航行しており、そのうち隔壁の破れる音と共に煙突から蒸気が噴出、「矢矧」座乗の第十戦隊司令官木村進少将が「翔鶴は止まらなくては駄目だ」と叫ぶ一幕もあったという。翔鶴艦内では左舷への注水作業により傾斜の復旧作業が実施されたが、注水のしすぎによって、逆に左舷に傾斜してしまう。また前部に命中した魚雷によって艦首が著しく沈下した。またエレベーターも故障して途中で止まっていた。その後、魚雷被弾時に気化した航空燃料が艦内に充満し、それに引火し大火災を起こす。14時1分に沈没。沈没時、乗組員は飛行甲板後部に集まっていたが、「翔鶴」が急激に前のめりになって沈下をはじめため滑り台のようになり、飛行甲板に空いたエレベーターの穴に多数の乗組員が落ちてしまった。1,272名の乗組員が戦死した。艦長を含む脱出者は軽巡洋艦「矢矧」や駆逐艦「秋月、浦風」等に救助されている。艦歴は2年10ヶ月であった。
- 「翔鶴」沈没から間もなく、小沢機動部隊旗艦の空母「大鳳」も米潜水艦「アルバコア」から受けた雷撃が原因で大爆発を起こし、沈没。6月20日の空襲で空母「飛鷹」とタンカー2隻を喪失。「翔鶴、大鳳、飛鷹」の喪失により、日本の空母戦力は、機動部隊として艦隊運用できる隻数、搭載機、乗員の確保が困難となり、事実上、空母機動部隊として作戦運用できる能力を失った。「翔鶴」生存者は救助艦から姉妹艦「瑞鶴」と重巡「摩耶」に移乗し、日本本土へ向かった。
艦歴
- 1937年(昭和12年)12月12日 横須賀海軍工廠にて起工。
- 1939年(昭和14年)
- 5月16日 命名。
- 6月1日 進水
- 8月8日 就役。
- 8月23日処女航海。
- 8月25日 第五航空戦隊に編入。
- 11月26日 単冠湾出撃。
- 12月8日 真珠湾攻撃参加。
- 1月17日 ラバウル攻略戦でトラック諸島出撃、同20日ラバウル、同21日ラエ攻撃。
- 3月26日 セイロン沖海戦参加。翌4月5日コロンボ攻撃。同9日トリンコマリー攻撃。
- 5月7日 珊瑚海海戦参加。5月9日世界最初の空母対空母の戦闘を行う。
- 6月17日 呉にて修理を行う。
- 8月24日 第二次ソロモン海戦参加。
- 10月26日 南太平洋海戦に参加。
- 1944年(昭和19年)6月19日 マリアナ沖海戦で、米潜水艦「カヴァラ」の攻撃により沈没。
- 1945年(昭和20年)8月31日 除籍
瑞鶴との違い
- 「翔鶴」と「瑞鶴」は識別が困難(搭乗員でさえ着艦を間違えた)であるが、艦橋直後のメインマストの中途に拡声器(スピーカー)を備えているのが瑞鶴である。但し、真珠湾攻撃時には双方ともメインマストの中途にスピーカーを備えており、昭和17年末には瑞鶴がこのスピーカーを艦橋左壁に移設しているため、艦橋直後のメインマストのスピーカーの有無を両艦の識別点にできるのは、ごく短期間のことである。尚、飛行甲板前部上に対空識別記号として,カタカナで、「翔鶴」は“シ”、「瑞鶴」は“ス”と記載されていた。
- 「翔鶴」の武勲を仰ぎ、海上自衛隊舞鶴基地では、舞鶴と羽ばたく鶴(翔鶴)を掛け合わせて舞鶴翔鶴太鼓を結成し、広報活動に従事している。
歴代艦長
※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』54-56頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
艤装員長
- 澄川道男 大佐:1940年5月20日 -
- 城島高次 大佐:1940年10月15日 -
艦長
- 城島高次 大佐:1941年4月17日 -
- 有馬正文 大佐:1942年5月25日 -
- 岡田為次 大佐:1943年2月16日 -
- 松原博 大佐:1943年11月17日 - 1944年6月26日
同型艦
参考文献
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- 伊藤正徳 『連合艦隊の栄光』 角川書店、1974年7月。
- 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
- 大高勇治 『第七駆逐隊海戦記 生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』 光人社NF文庫、2010年。ISBN 978-4-7698-2646-0。
- 生出寿 『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』 光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年。ISBN 4-87538-039-9。
- 国見寿彦著、河原崎勇監修 『海軍軍医の太平洋戦争 防空駆逐艦秋月』 近代文藝社、1992年。ISBN 4-7733-1675-6。
- 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9。
- 「信頼の絆」<航空母艦「瑞鶴」艦長・野元為輝少将の証言>(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦時、瑞鶴艦長)
- 「戦術の極意」<駆逐艦「槇」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
- 佐藤静夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 高戸顕隆 『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部 海軍主計大尉の太平洋戦争』 光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8。
- イアン・トール著、村上和久訳 「第十章 索敵の珊瑚海」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』 文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6。
- チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
- 橋本廣 『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』 光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。
- 橋本は南雲司令部の一員(信号兵)として「翔鶴」艦橋勤務。
- 原為一 『帝国海軍の最後』 河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7。
- 福地周夫 『空母翔鶴海戦記』 出版共同社、1962年6月。
- 福地(海軍少佐)は翔鶴運用長。前職鳥海運用長。1941年8月20日着任、1942年11月陸奥に転勤。
- 福地周夫 『続・海軍くろしお物語』 光人社、1982年6月。ISBN 4-7698-0179-3。
- 福地周夫 『海軍美談よもやま物語』 光人社、1985年11月。ISBN 4-4698-0287-0。
- 福地周夫 『温故知新ちょっといい話 海軍くろしお物語』 光人社、1992年12月(原著1956年)。ISBN 4-7698-0179-3。
- 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6。
- 文藝春秋編 『完本・太平洋戦争(上)』 文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0。
- 源田實『奇蹟の成功・真珠湾攻撃』/淵田美津雄『真珠湾上空一時間』/小瀬本国雄(蒼龍艦爆隊)『ハーミスを撃沈せり-インド洋作戦』/江間保(瑞鶴艦爆分隊長)『九九艦爆戦記-珊瑚海海戦』/長井純隆(第三艦隊作戦参謀)『南太平洋海戦の勝利』/千早正隆(元海軍中佐)『戦果ゼロ・マリアナ沖海戦』
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
- 牧島貞一 『炎の海 報道カメラマン空母と共に』 光人社NF文庫、2001年。ISBN 4-7698-2328-2。
- 牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、南太平洋海戦に参加する。
- 雑誌「丸」編集部 『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』 光人社、2010年7月。
- 当時「翔鶴」応急指揮官・元海軍大佐福地周夫『珊瑚海海戦 五航戦「翔鶴」と史上初の空母戦』
- 当時第三艦隊参謀・元海軍中佐中島親孝『南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊』
- 当時「瑞鶴」艦長・元海軍少将野元為輝『武運艦「瑞鶴」南太平洋の凱歌』
- 当時第一機動艦隊司令長官・海軍中将小沢治三郎『昭和20年10月16日/小沢長官が米軍に語った証言記録-質問者/米海軍R・A・オフスティ少将 「あ」号作戦の疑問に答える』
- 当時海軍技術大佐塩山策一『大鳳と瑞鶴で見たマリアナ沖海戦』
- 元第一機動艦隊参謀・海軍大佐大前敏一『あ号作戦・レイテ沖海戦に散る 小沢機動艦隊の最後』
- 当時「隼鷹」乗組・元海軍二等兵曹吉川亘『マリアナ沖の明暗 二航戦旗艦「隼鷹」で戦ったわが初陣』
- 宮尾直哉 『空母瑞鶴から新興丸まで 海軍軍医日記抄』 近代文藝社、1992年3月。ISBN 4-7733-1211-4。 著者は1941年11月18日~1943年2月15日まで瑞鶴勤務。
- 歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.13『翔鶴型空母』学習研究社、1996年 ISBN 4-05-601426-4
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
自評:說到太太收藏(?)裡怎能沒有翔鶴太太呢w在中文資料如果跟日文比較,差好多,看著看著日文資料寫得比較詳細,要吸收知識要花時間,在動畫算普普通通的戲分量,料理和泡澡的身軀簡直就是太太型XD
相關圖:
動態:
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